歴史

篠立と古田、この二つの地名をあわせて立田地区といいます。

この地域は古くから、穏やかなふるさとを愛する住民によって大切に守られてきました。

・古田村

古田には、ヤマトタケルの伝説があり、その伝説は今も残っています。古田地区のなかに塚があり墓が立っていますが、これは少し変わった由緒ある場所とされています。また、2000年もの昔の話ですが、日本武尊(やまとたけるのみこと)が伊吹の征伐に行った有名な話があり、その征伐に行った理由が大和朝廷の言うことを聞かなかったからと言われています。征伐というより服従させるために行ったと思われるのですが、その時、ヤマトタケルが水汲み休憩していた池が今もあります。

・篠立村

篠立より古田の方が歴史は古いですが、篠立には藤本という苗字が存在し、そのルーツであると考えられる「藤本氏丸(ふじもとうじまる)」という人が、1300年前に篠立開拓に向かわれました。そして、743年に三世一身法から墾田永年私財法に改革されたことから、本格的に人々は開拓を始めたのです。同じように「藤本氏丸」も篠立で開拓を始めたと推測されます。また、その「藤本氏丸」を祀った「弥太(やた)神社」という神社がありました。明治42年に九つの神社を合祀しています。今は神社跡になりましたが、地域を開拓した先祖をそこに祀っているという歴史が残されています。

・村の成り立ち

明治22年に古田村と篠立村が合わさって立田村になりました。それが昭和30年に藤原村になりました。東藤原、西藤原、中里、白瀬、立田のこの5つが、藤原村になります。そして、昭和42年に藤原町になり、平成15年にいなべ市になり現在に至ります。

・篠立・古田地区の始まりのころ

鎌倉時代にもぽつんぽつんと何軒か小さな家は建っていたのですが、村という感じではありませんでした。では、この地域がどのようにできたかというと、ここには関ケ原の合戦の時に、正確にはわかりませんが、おそらく数十軒程度からなる集落が存在しており、そこに関ケ原の合戦時の残兵が押し寄せてきて、悪さをしたかどうかは分かりませんが、幾分か集落側が盟約を被ったんです。そこでこの地域にいた現地住民とそれまで住んでいた住民が白石の奥の谷の水のある場所へ逃げていき、そこで稗(ひえ)を栽培して何年か過ごしていました。今もそこには稗田などが残っています。そういった部分からこの地ができていったと言われています。

・長楽寺と明行寺

長楽寺の観音堂は奈良時代のもので、位置的にもっと高い場所にあったのですが、鎌倉時代になって下に移されました。長楽寺は白山信仰の祖・泰澄が722年狗留孫山岳山頂に馬頭観音を祀ったのが始まりと伝えられています。1752年には現在地に再興され、曹洞宗の禅寺になっています。山間の緑豊かなお寺であります。そして、この長楽寺の上辺りから水が抜けていくため、この地区では水がない状況に陥っていました。また、長楽寺の下には明行寺があります。明行寺では蓮如上人御木造が当寺にて寺宝安置宝仏とされています。

 

・集落の成り立ち

藤原町内全体の集落は大体、鎌倉時代にできたのではないかと言われています。元々は20軒ほどの戸数で集落、若しくは村のような形を作っており。それを支配するリーダーがいました。また。この地域がどういった経緯をたどり成立したかを美濃から調べていくと、昔、近江の佐々木家があったそうです。言葉の文化から考察するに、おそらく人々は近江の方から来たのではないかと言われています。

・猪名部神社

立田地区の東の中里地区に、奈良時代の頃から存在していると言われている、いなべ市の中で最も古い神社「猪名部神社」というものがあります。これがいなべ市の名前の由来ともいわれています。またその神社の横には、晴寿澄善縄(はるすみのよしただ 797-870年、「続日本後記」の編纂などで知られる)がいたことがあるという資料が発見され、それにともない調査も行われ、碑もたっており、立派な神社の境内もあります。

・古田茶屋田

戦国時代からもう一つ形として残っているものが古田茶屋田です。つまり茶屋田という田んぼがあったのです。長島一揆の時に美濃(みの)の牧田の方に2万何千の大軍を引き連れて豊臣秀長が訪れました。そこで、村中の人が対応しました。古田茶屋田にて、豊臣秀長と彼の兵士達にお茶をふるまっていたのです。それは自分たちの身の安全を確保するためでもありました。現在の清水団地のあたりに、今もなお、この茶屋田というものは存在しています。

・松平定綱

古田や篠立に村が誕生した時期は鎌倉時代辺りであるといわれています。正式に歴史の本に桑名藩の篠立村と古田村が表記されるのは江戸時代になってからです。なかでも特筆すべき方が桑名の3代目の殿様である松平定綱公です。1636年頃、定綱公は水不足が原因で田んぼを作るのが困難であるこの村で、人々の句氏の改善のため、積極的に動いておられました。当時、年貢を納めるとなれば米が普通ですが、定綱公はこの村においてそのような年貢の納め方は難しいと考え、柿の植栽を提案し、まず初めに「あおづる」という種類の渋柿を奨励されました。それ以来、古田地区一帯の住人は米の代わりに柿を年貢として納めていたと言われています。また、この村には今でも「カヤ」という天然記念物があります。これは江戸時代からあるカヤの木であり、当時、地域を少しでも豊かにするためにと、定綱公がお手植えになったものです。今では、とても立派なサイズの大木にとなっています。 定綱公は桑名藩の村々で、水を引くための工事費や諸々の資本金の提供に加え、新しく田んぼをつくった際には、水を引きやすいように多くの溜を作られました。 これまでの話からも分かるように、この村の発展において、松平定綱公の貢献が非常に大きかったことが分かります。そして、定綱がなくなってからは、お世話になった集落がその寺ごとに「大鏡院」という定綱公の位牌を祀っているといわれています。この位牌には、定綱公のご命日など詳しいことが書かれています。歴史上の記録からも分かるように、この地域は元々水がなく、米も取れなく、いくら年貢を柿で許してもらっても生活が豊かであったとは決して言えない地域でした。次第に子供家族が増え、文化が発展していきますが、住人の苦労はかなり大きかったと言えます。

・人口と戸数

江戸時代には、古田村の戸数は50軒、人口221名、篠立は81軒、420名という記録が残っています(1827年)。それから、明治22年には町村制が施行されて、古田と篠立が合わさって立田村になります。この年の記録として、立田村全体で、戸数151軒、人口763人とされています。さらに、やはり立田村全体で、大正4年には戸数167軒、人口896人と、だんだん増えていることが分かります。それから昭和30年になり、村の戸数は253軒。人口は1020人。そして昭和50年になりますと、この時期には人口が減ってきています。戸数は224軒で、人口も856人です。しかし、この224軒で858人というのは、現在の600人程度よりも多いです。戸数に関しては1人暮らし2人暮らしの世帯も多いので、およそ220軒位です。というように、近年では、この地区では戸数も人口も徐々に減ってきていると思われます。

・古田重勝公

江戸時代でよく語られ、最近脚光を浴びているのは、松阪の城主の古田重勝という人物です。古田重勝公のことを知りたいという人が松阪の方から古田地区へ何回もお見えになっています。古田という所はどういう所なのか教えてほしい、地域の歴史や事情に詳しい人に来てほしいと、遠方からいろいろな人が調べに見えるという現状があります。

・古田織部正重然(ふるたおりべのかみしげなり)

次に古田織部の話に移ります。家系図を見てみますと、古田重勝の叔父にあたるのが織部になります。織部焼で有名な古田織部のは幼少の頃、古田に住んでいたといわれています。古田織部の父親である重定は今の土岐市の出身でした。桑原家は上石津の一ノ瀬という所にあり、重定はそこに養子に入りました。そこで生まれた子供が「景安=佐介=織部」でありますが、桑原家はそこで途絶え、織部は父である重定の兄上の重安の所へ養子に入りました。しかし、重則という跡取りの出生により、織部は岐阜県の本巣町の寺へ移って行きました。ゆえに織部の生誕の地は本巣町でるかは定かではありません。そして、重則の子供、重勝が松阪城主になり、重勝とその弟重治は共に31年間も城主を務めたのです。

 

(引用:京都産業大学調査結果報告書)